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命の木を享受して神の意図を成し遂げる

そしてエホバ・神は東の方のエデンに園を植えられた。そして彼は形造った人をそこに置かれた。エホバ・神はその土地から、見て喜ばしく、食べるのに良い、すべての木を生えさせ、さらに園の中央に命の木と、善悪知識の木とを生えさせられた。(創世記2:7-8)

わたしたちは多くの問題を持っていますが、それらを対処するためにもがく必要はありません。

わたしたちは、罪、肉、この世、サタン,死を対処する必要はありません。

なぜなら神の中に、これらの問題を対処する要素があるからです。

わたしたちが願うのが、罪、肉、この世、サタン、死に打ち勝つことであろうと、神のみこころをおこなうことであろうと、わたしたちは神を享受する以外に何も行う必要はありません。

わたしたちが神を取り入れる時、神の内側にある多くの要素は、消極面でわたしたちの問題を対処し、積極面で神の永遠の意図を成し遂げます。

神の永遠の意図は、わたしたちが彼のかたちを持って彼を表現し、神の統治権を行使するために彼に服従し、彼の配偶者となって彼に結合されることです。





召会を建造するための霊における実行上の事柄

また、キリストが2信仰を通して、あなたがたの1心の中に、ご自身のホームを造ることができますように.(エペソ人への手紙3:17)

わたしたちの内なる人は、強くなる必要があります。

増強されるためのわたしたちの最も大きな必要は、わたしたちの体の中にあるのではなく、わたしたちの魂、すなわち、思い、意志、感情の中にさえありません。

わたしたちの霊が最も強い部分でなければなりません。

それは優勢であり、第一位をもっていなければなりません。それは、わたしたちの前存在が内なる人の下に来て、キリストがそれを完全に制御するためです。

そのとき、わたしたちが満たされて、神の全豊満へと至ることが可能です。

これが意味するのは、わたしたちが徹底的に、完全に、全く神とミングリングされることです。このミングリングの中でわたしたちは召会生活を持ちます。

これは非常の基本的な事柄であり、わたしたちはそれを強調しすぎることはあり得ません。わたしたちはメッセージに次ぐメッセージを与えて、一つの事柄を強調する必要があります。

すなわち、わたしたちの内なる人が増強されなければならず、キリストがわたしたちの全存在を支配しなければならないのは、わたしたちが神とミングリングされることができ、満たされ、神の全豊満へと至るためです。

(W・リー著1965年「キリストのからだとしての召会のビジョン、実行、建造」第9編より)



夜はふけて

「夜はふけて、昼は近づきました。ですから暗やみのわざを脱ぎ捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」(ローマ13:12)


キリストの昇天から再来まで、この世は長い夜にあります。

人の目には、この世はさらに明るく輝いており、さらに発展しています。

しかし、神の言葉によれば、「夜はふけ」ているのです。

神は、この世がとても明るく輝いていて発展しているとは言われません。

そうではなく、彼は夜はふけていると言われます。

今わたしたちは夜にいるのです。

こういうわけで、わたしたちは周りに暗やみを見るのです。

あなたは、自分の周りのすべては暗やみであると感じるでしょうか?

もしあなたが、何が暗やみであるかわからず、また自分の周りがすべて暗やみであることを感じないのなら、わたしはあなたがこの世によって同化されているのではないかと恐れます。

もしわたしたちが絶えず光の中を歩き、絶えず神の近くにとどまり、キリストの中を生き、肉の働きをやむことなく裁き、聖霊の導きに従うなら、わたしたちはこの世が真に暗やみであることを認識するでしょう。

(ウオッチマン・ニー全集 第10巻 「現在の証し(三) 最後の道」より)




父と子と聖霊の名の中へとバプテスマする

マタイによる福音書28:19

だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、

バプテスマには2つの面、水による目に見える面と、聖霊による目に見えない面があります。

その霊による目に見えないバプテスマがなければ、水による見えるバプテスマは空しいです。また水による見える面がなければ、その霊による見えない面は抽象的であり、実際的ではありません。

バプテスマは個人の面もありますが、団体的な面もあります。

聖霊は教会全体をバプテスマしました。ユダヤ人の部分はペンテコステの日に、異邦人の部分はコリネリオの家においてです。

これに基づいて、弟子たちは新しく悔い改めた者たちをバプテスマしました。

水のバプテスマにおいて、信者は次の4つの実際にもたらされます。

1)キリストの死の中へと(ローマ6:3-4)

3 それとも、キリスト・イエスの中へとバプテスマされたわたしたちはみな、彼の死の中へとバプテスマされたことを、あなたがたは知らないのですか?
4 こういうわけで、わたしたちは彼の死の中へとバプテスマされることを通して、彼と共に葬られたのです.それは、キリストが御父の栄光を通して死人の中から復活させられたように、わたしたちも命の新しさの中を歩くためです。

2)キリストご自身の中へと(ガラテヤ3:27)

27 なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです。

3)三一の神の中へと(マタイによる福音書28:19)

19 だから、行って、すべての諸国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、

4)キリストのからだの中へと(第一コリント12:13)

13 なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。


以上に見るように、バプテスマは、消極面では信じる者の古い命を終わらせることであり、積極面ではキリストのからだのために、信じる者を新しい命、三一の神の永遠の命をもって生み出すことです。




十字架につけられた命を生きる

ピリピ人への手紙第2章

5 キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたがたの内側でも思いとしなさい.
6 この方は、神の形の中に存在されますが、神と等しくあるのを固守すべき尊いこととは見なさず、
7 かえってご自身をむなしくし、奴隷の形を取り、人の姿になられて、
8 人としての有り様で見いだされ、ご自身を低くして、死にまでも、しかも十字架の死に至るまでも従順になられました。

 これらの節で提示された模範が、今やわたしたちの内側の命です。この命は、十字架につけられた命とわたしたちが呼んでいるものです。キリストの辱めの七つの段階は、十字架につけられた命のすべての面です。キリストは神格の表現を持っていましたが、この表現を脱がれました。しかしながら、彼は彼の神格の実際を脱がれませんでした。彼はさらに高い形、神の形を脱ぎ、はるかに低い形、奴隷の形を取られました。これにおいて、彼はご自身をむなしくされました。確かにこれは、十字架につけられた命のしるしです。そして、人と成って、人としての有り様で見いだされた後、キリストは十字架の死に至るまでもご自身を低くされました。これは、完全に絶対的に生かし出された、十字架につけられた命でした。
 キリストはわたしたちの外側の模範であるだけでなく、わたしたちの内側の命です。この内なる命として、彼はわたしたちにご自身を経験させ、それによって十字架につけられた命を生きさせられます。この十字架につけられた命には、自分本位の野心、虚栄、自己を引き上げることの余地はありません。その反対に、自己をむなしくすることと自己を低くすることがあります。キリストを経験しキリストを生きる時はいつも、わたしたちは自動的にそのような十字架につけられた命を生きます。これは、わたしたちがキリストを生きる時、十字架につけられた命の模範である方を生きることを意味します。その時わたしたちはまた自分をむなしくし、自分を低くするでしょう。
 もしわたしたちが十字架につけられた命を内側に持っていないなら、ピリピ人への手紙第二章に提示された模範にしたがって生きることは決してできません。十字架につけられた命だけが、そのような模範を生きることができます。もしわたしたちがまだ自分本位の野心や虚栄から事を行なったり、指導者や長老になろうとする野心がまだあるなら、十字架につけられた命を生きていません。わたしたちは自分をむなしくしていないし、自分を低くしていません。しかしながら、わたしたちは、真に自己をむなしくし自己を低くする命を内側に持っています。この命は決してあるものを宝として固守しません。むしろ、それは常に進んで地位や称号を投げ捨てます。

(ウイットネス・リー著 (ピリピ人への手紙ライフスタディより)


神の愛

 神の愛について、聖書はひたすらそれを語っています。

今回のわたしたちの聖書の学びで、わたしたちはただ概略的に福音の真理を見ていくことにします。

わたしたちは多くの事を述べますが、それらを詳細に考えることはしません。

今晩わたしは、聖書に見いだされる神の愛に関して、すべての面を取り扱うことはできません。

わたしはこの事柄をただ簡単に述べることができるだけです。

神の愛について、三つの面を考慮しなければなりません。

第一に、神は愛です。

第二に、神は人を愛しておられます。

第三に、神の愛の表現は、キリストの死にあります。

神は愛である

第一の点を見ましょう。

神は愛です。

これはヨハネの第一の手紙第四章十六節に記されています。

ここでは、神は愛されるとは言っていません。

また、神は愛するかもしれないとも、神は愛することができるとも、神は愛したとも、愛するだろうとも言っていません。

神は愛である、と言っています。

神が愛であるとは、どういう意味でしょうか? 

それは、神ご自身、神の本性、神の本質が愛であるという意味です。

もし、神には性質があると言うことができるとしたら、神の性質は愛です。



聖書の最大の啓示は、神が愛であるということです。

この啓示は、人が最も必要とするものです。

人は神について、多くの推測や理論を持っています。

わたしたちはいつも、神はどんな種類の神なのか、神はどんな種類の心を持っておられるのか、神は人に対してどんな意図を持っておられるのか、神ご自身はどのような方なのか、と思案します。

あなたがだれかに神についてどう思うかと尋ねれば、彼は自分の観念を持っていて、神はこのような神である、あのような神である、と考えるでしょう。

この世の偶像、この世が作り出した神は、すべて人の空想の産物です。

人は、神は荒々しい神であり、あるいは厳しい神であると考えます。

人はこのように、またあのように神を描きます。

人は常に、神はどのような方であるか推測したり、説明したりしようと試みています。

人が神について持っているさまざまな推測を正すために、神は福音の光の中でご自身を現して、神が近づき難い、あるいは測り難い神ではないことを、人に示されるのです。



それでは、神とは何でしょうか? 

神は愛です。

わたしが一つの例を与えなければ、この言葉は十分にはっきりとすることはないでしょう。

例えば、ある忍耐強い人がいるとします。

彼は何に遭遇しようとも、またいかに状況が困難であろうとも、いかに状況が悪くても、忍耐があります。

そのような人に対して、「彼は忍耐強く行動した」と言うことはできません。

彼について述べるのに、「忍耐強く」という副詞を使うことはできません。

また、「忍耐強い」という形容詞を使うこともできません。

彼は忍耐そのものである、と言わなければなりません。

おそらくわたしたちは彼のことを名前で呼ぶことはしないでしょう。

むしろ彼の背後で、忍耐が来たとか、忍耐が語ったとか言うでしょう。

「神は愛である」とは、愛が神の性質であるという意味です。

神は、内側から外側まで愛です。

ですからわたしたちは、「神は愛らしい」という形容詞を使ったり、「神は愛される」という動詞を使ったりはしません。

「神は愛である」と名詞を使うのです。



忍耐の人の中に、早急さを見いだすことはできません。

彼は忍耐そのものです。

彼は単に忍耐強いのではありません。

彼はまさに忍耐です。

そのような人に早急さがあるでしょうか? 

彼は短気を起こすでしょうか? 

彼は人に対して刺すような言葉を交わすでしょうか? 

それは不可能です。

彼の性質には、そのようなことをする要素がないからです。

彼の性質には、根本的に短気とか早急さというものはありません。

彼はただ忍耐なのです。



愛なる神についても同じです。

愛としての神は、聖書における最大の啓示です。

すべてのクリスチャンが知るべき最大のことは、神が愛であることです。

神が憎むことは不可能です。

もし神が憎むとすれば、彼は自分の憎む者と衝突するだけでなく、彼ご自身とも衝突するでしょう。

もし神が今日ここにいるわたしたちのだれかを憎んだとすれば、神はその人とだけ問題を持つのではなく、ご自身とも問題を持つでしょう。

神は憎むことができる前に、または愛のない方法で何事かをする前に、彼ご自身に関して問題を持ってしまうのです。

神は愛です。

この言葉は最も単純ですが、最大の啓示を与えてくれます。

神の性質、神の命の本質は、まさに愛です。

彼は別の方法で事を行なうことはできません。彼は愛されます。

そして同時に、彼は愛です。



もし今日あなたが罪人であるなら、神が自分を愛してくださる前に自分は何をしなければならないのだろうかと思うでしょう。

多くの人は、自分たちに対する神の思いを知りません。

彼らは、神がどのように考えておられるのか、神がどんな意図を持っておられるのか、わかりません。

多くの人は、自分はこのように行ない、このように苦しみ、このように良心的であってはじめて、神を喜ばせることができると考えます。

ただ暗やみにいる人たち、神のみこころを知らない人たちだけが、このように考えるでしょう。

もし今日、福音がないとしたら、あなたはこのように考えることがあり得ます。

ところが今、福音がここにあるので、あなたはもはやこのように考えることはできません。

なぜなら福音は、「神は愛である」とわたしたちに告げるからです。



わたしたち人は、憎しみ以外の何ものでもありません。

わたしたちにとって、愛するのは何と難しいことでしょう。

そして神にとって、憎むのは何と難しいことでしょう。

あなたは、愛することは難しい、どのようにして人を愛するのかわからない、と思うかもしれません。

ところが、神にとって憎むことは不可能です。

あなたには愛するすべがありません。

そして神には、憎むすべがありません。神は愛です。

彼にとって、憎むことは彼の性質に反することであり、それは彼にとって不可能なのです。



ウオッチマン・ニー全集 第28巻 「神の福音(1)」より



「その霊によって生き歩く」

瞬間ごとにわたしは呼吸しています。

あなたからわたしの命のすべてを引き出し、一呼吸ごとあなたによって生きます。

主よ、あなたの霊をわたしの中に吹き込んでください。

             (詩歌210番原文)

その霊をこのように受けようとするなら、わたしたちは自分を開き、霊を活用して、主を呼び求める必要があります。

これは、わたしたちが絶えず祈ることを必要とします。

その霊を受けるなら、わたしたちは命を持ち、そして生きます。

わたしたちは日常生活の中で、呼吸することによってその霊を絶えず受けるべきです。

わたしたちはその霊を受ければ受けるほど、ますます多くの命を持ち、そして生きるでしょう。




その霊によって歩くことが何を意味するかの具体的な例証が、結婚生活に見いだされます。

互いをよく知っている結婚した夫婦は、容易に言い合いをします。

夫は妻の欠点を指摘し、妻は夫の欠点を指摘して言い返すかもしれません。

夫と妻がこのように言い合う時、確かにその霊によって歩いていません。


その日の朝早く、彼らは霊を活用して主に触れ、呼吸することによってその霊を受けるかもしれません。

しかしながら、互いに言い合っている時、彼らはもはやその霊を受け続けていません。

彼らは命を受けることをやめるので、その霊によって歩きません。

むしろ、彼らは肉によって歩きます。


夫と妻が議論することから救われる最上の方法は、霊を活用することです。

夫は言うべきです、「主よ、わたしは霊を活用して妻と言葉を交わします。

主よ、あなたを呼び求め、あなたがわたしと一つ霊となってくださることを求めて、妻と議論します」。

兄弟がこのように祈ったなら、妻と議論することができると思うでしょうか?

もちろんできません。

議論するどころか、彼は命を受け、妻と言葉を交わす願望は死に渡されるでしょう。


わたしたちはその霊によって生きるからには、その霊によって歩くべきです。

夫と妻は霊を活用してその霊を受けるからには、結婚生活においてその霊によって歩くべきです。

こうして、議論は代わって、賛美となるでしょう。


瞬間ごとに、わたしたちは主を呼び求め、祈って、命を持ち、そして生きる必要があります。

第一に必要な事は命を受け、そして生きることです。

…わたしたちは呼吸することによってその霊を受けます。

いったんその霊を受けることによって命を持つなら、わたしたちはその霊によって歩くでしょう。

わたしたちはその霊によって事を行い、語るでしょう。


その霊によって歩くことは、わたしたちの中に造り変え、新陳代謝の変化を生み出すでしょう。

そのような変化は外側の矯正や是正の産物ではありません。

わたしたちがその霊によって生き、その霊によって歩く時、神は自然にわたしたちから生かし出され、わたしたちを通して表現されます。

その時、わたしたちは実際と実行の中で、神の命によって生き、この命によって歩く神の子たちです。



瞬間ごとに、わたしたちは神聖な命を吸い込む必要があります。

こうして、自分で行動し、肉によって歩くのではなく、呼吸することによって受けるその霊によって、あらゆることを行うでしょう。

今日わたしたちの必要はその霊を受けその霊によって歩くのを実行することです。

これは宗教や倫理ではありません。これは生ける霊の経験です。




「その霊から生まれてその霊を受ける(1)」ダイジェスト

クリスチャンで、自分は神の子であること、神は自分に神の子の命を生きてもらいたいことを認識している人は多くいません。

大部分のクリスチャンは救われた後、自分を改善しようとしたり、何かをして神を喜ばせようとします。

天然の人を改善しようとしたり、何かをして神を喜ばせようとしたりする努力の中で、主の民の大多数は、神のエコノミーの目標を見失っています。




神の目標は、単にわたしたちが振る舞いを改善し、それによって悪ではなく、善を行うことではありません。

神の願いは、わたしたちが神の子たちとして生きることです。

神はわたしたちが単に清められることを求めておられるのではありません。

神はわたしたちに、神の子たちとして生きてもらいたいのです。

こうしようとするなら、わたしたちは神の霊を受ける必要があります。

わたしたちはその霊から生まれてその霊を受けたのです。




ガラテヤ人への手紙第3章5節は言います、「それでは、彼があなたがたにその霊をあふれるばかりに供給し、あなたがたの間で力あるわざを行っておられるのは、律法の行いによるのですか、それとも信仰を聞くことによるのですか?」

この節は、神がわたしたちにその霊を供給し続けておられることを示しています。




ガラテヤ人は信仰を聞くことによって救われ、その霊を受けてきました。

しかしながら、彼らは誤って導かれ、そらされ、律法に戻ってしまいました。

彼らはその霊を彼らの源としたのではなく、律法を彼らの源としたのです。

今日、多くのクリスチャンも、その霊からそらされています。

わたしたちはみな、源としてのその霊に連れ戻される必要があります。

わたしたちは、すべてを含む、命を与える霊としての神ご自身に戻らなければなりません。





わたしはあなたがたがこのように祈るように励まします、

「主イエスよ、あなたに開きます。わたしは神から生まれ、すべてを含む霊から生まれたことをあなたに感謝します。主よ、この霊はなおもあなたの何かをわたしの中に伝達しています。主よ、この驚くべき伝達のゆえに、あなたに感謝します」。





あなたの弱さやかんしゃくについて祈る必要はありません。

あなたを忍耐強くし、良い妻と母親、良い夫と父親になるよう、主に求める必要はありません。

そのような祈りは効果がありません。

主はあなたが彼に開き、彼に浸透していただき、飽和していただき、所有していただくのを待っておられるのです。

彼はあなたの内側ですべての立場を占有する機会を待っておられるのです。





その霊の伝達を受けるなら、自動的に良い妻、あるいは良い夫になるでしょう。

あなたはその霊から生まれました。

今やあなたがその霊に開き続け、彼を継続的に受け入れる必要があります。

その霊に対して、自分を閉ざしてはなりません。

あなたがその霊に開き続け、絶えずその霊を受けるなら、いかにこれがあなたの日常生活に影響するかに驚くでしょう。

あなたが受けることなく何年間も祈ってきたことが、今やあなたの経験となるでしょう。





わたしたちの必要は、主に向かい、彼に開き、その霊の供給を受けることです。





繰り返しますが、神の意図は、あなたを良い人にすることではありません。

それはあなたを神の子とすることです。

まず、神は御子を遣わして、わたしたちの贖い主とされました。

次に神はわたしたちの心の中へ、御子の霊を遣わされました。

今や神の願いは、わたしたちに絶えずその霊を供給することです。




キリストをアルファベットとして、生ける神の命を与える霊をもって生ける手紙を書くことができる

一方で、わたしたちは人の上にキリストを書くことを求めるべきです。もう一方で、わたしたちはキリストの生ける手紙、生ける書簡であり、人はわたしたちの中に書き記されたキリストを読むことができます。青年たち、あなたが親を訪問する時、彼らがあなたの中に書き込まれたキリストを読んでいることを確信しなさい。

彼らはあなたをこっそり読んで、読んでいることをあなたに知られないようにしているかもしれません。ある人はあなたに反対し、主の回復の中の召会生活を批判するかもしれません。わたしはあなたを、このような反対や批判に煩わされないようにと励ましたいのです。怒ったり失望したりするのではなく、親はあなたの中に書き記されたキリストを読んでいることを、あなたは認識する必要があります。時には、反対でさえ人がわたしたちを読んでいるしるしであるのです。

わたしは子供たちの中にあるキリストについて何かを読んだために、ついに主の回復に転機した親の多くの実例を知っています。父は息子の前で悔い改めて泣き、こう言うでしょう、「子よ、あなたを傷つけてすまなかった。わたしは何年間もあなたに反対し、とがめさえした。しかしわたしはあなたをずっと読んでいたのだ。わたしはあなたの中に何かを見たことを認めなければならない。あなたの中に見たものは、今やあなたと主の御前でわたしを泣かせる。わたしは召会の集会の一つにあなたと一緒に行ってみたい」。

子供たちに反対する親は、後になって召会生活に入ってくるかもしれません。若い人が親の前で、自分の中に書き込まれたキリストを展覧するには時間がかかるでしょう。しかししばらくして、親はキリストのこの経験の純粋さに納得させられるでしょう。

青年たち、あなたは親を訪問する時、彼らにキリストを展覧すべきですが、何の演技もすべきではありません。あなたはまた親と議論することによって、あるいは多くの事を知っていると主張することによって、主の回復を守ろうとすべきではありません。ただ今のあなたでありなさい。

コリント人への第一の手紙第15章10節でパウロは言っています、「神の恵みによって、今のわたしがあるのです」。

あなたが家で親を訪問する時、神の恵みによって、ただ、今のあなたでありなさい。キリストはあなたの中に書き記されてきました。人はあなたの演技によってではなく、あなたが何であるかによって納得させられるでしょう。若い人たちが何であるかは、特に親を納得させます。なぜなら、すべての親は、自分の子供に良い事が起こるのを願っているからです。最終的に、キリストがあなたの上に書き続けられ、このキリストをあなたの親に現すなら、彼らは納得し、あなたに続いて召会生活の中に入る決心さえするでしょう。

重要な事柄は、キリストがわたしたちの中に書き記されることです。キリストがわたしたちの中に書き記されれば書き記されるほど、ますます多くの人が、わたしたちの中のキリストを読むことができるでしょう。

     (ウィットネス・リー兄弟の著作よりダイジェスト

食べること

一 聖書における深い思想

聖書はとても深い思想を内容としており、啓示なしには、その深さを測ったり、察知したりすることができません。

神は人の中に入って、人の命となることを願われます。

それは、神と人が同じ命、同じ性質、同じ種類の存在、すなわち神・人の生活を持つためです。

これは宗教的な観念でも道徳的な観念でもありません。


神が人をご自身のための器として創造されました。

人は神を入れる神の器です。

あなたがどんなに高貴で優秀であるとしても、やはり、あなたはまさに神のための器です。

神だけがあなたの内容であるべきです。

あなたが神の命と性質を持っていないなら、また、あなたが神で満たされていないなら、あなたは空っぽの器であって、あなたの人生、あなたの生活、あなたの感覚、あなたの活動はすべて無駄です。

それらは無に等しいです。

これは、神が人のために計画し定めたことです。

二 神の目的を達成する方法

どのように神はご自身の目的を達成することができるのでしょうか? 

体を象徴的に考えてください。

鶏肉のようなものがわたしたちの体内に入って、わたしたちの要素となり、わたしたちと一つになるためには、それを食べ、消化し、吸収しなければなりません。

こうして、それは、わたしたちの血液となり、わたしたちの細胞となり、わたしたちの本質となります。


このことを意図して、主は言われました、「わたしは命のパンである・・・・わたしを食べる者も、わたしのゆえに生きる」(ヨハネ六・四八、五七後半)。

主を食べることによってのみ、わたしたちは神をわたしたちの内容としてわたしたちの中に受け入れることができます。

わたしたちは主を理解し、把握し、主を知り、愛し、信じ、主に従い、主を礼拝する必要があるだけでなく、それ以上に主を食べる必要があります。

ウィットネス・リー著「食べることの主の回復」より


この川が流れて行くすべての所で泳いでいるすべての生き物は生き、この水が入ると、非常に多くの魚がいるようになる。そして海の水はいやされ、この川が入る所ではどこでも、すべてのものが生きる。(エゼキエル47:9)

ウイットネス・リー「ライフスタディ エゼキエル書 第2集」より

乾いた地を歩くのは容易ですが、川の流れは歩くことを困難にします。水がくるぶしに達する時、わたしたちはまだ歩くことができますが、あまり便利ではありません。
水がひざに達すると、歩くのはさらに困難です。水が腰に達すると、歩くのはとても困難になります。これは、わたしたちが流れとしての主の恵みを享受する前、自分が好むことを何でもすることができることを示します。主の流れをただ浅い方法で経験する時、なおも自分の努力によって歩くことができます。しかし、流れがさらに深くなって、ひざに達すると、歩くことがはるかに困難になります。わたしたちは恵みを持ちますが、持っている恵みの量は十分でないので、自分で努力し続けます。

流れが増していくと、それはあなたを悩まし、制限し、妨害します。恵みの流れがさらに高くなって腰にまで来ると、これはクリスチャンであることの最もつらい時です。例えば、一方で、わたしたちは十分な恵みを持っており、それがかんしゃくを起こすことを困難にします。もう一方で、自分のかんしゃくに打ち勝つほどの十分な恵みを持っていません。わたしたちは恵みを持っていますが、自分で努力することをなおも必要とします。これはジレンマです。恵みの川が内側にありますが、十分に深くはありません。いったん恵みの流れが、越えることのできないほど深くなると、わたしたちは主を賛美し、川を泳ぎ始めるでしょう。わたしたちは泳ぐ時、もはや自分の足で立とうとしません。むしろ、自分の努力を捨てて、川を泳ぎ始めるでしょう。

わたしたちは、主から受ける恵みが少なければ少ないほど、ますます自分の努力を用いる必要があります。しかし、満ちあふれる恵みを受ける時、もはや自分の努力を用いる必要はありません。むしろ、自分の努力をやめて、川の流れに自分を運ばせます。わたしたちがこのように運ばれていくと、容易に主に従い、彼が行かせたいところはどこへでも、彼に導いていただくことができます。

わたしたちの多くはまだ自分の努力を放棄しないで、なおも自分の足で立とうとしてるのではないかと、わたしは心配しています。彼らは努力して奮闘し、自分の足で立ち続けています。これは、彼らが自分で努力して、勝利者になろうとしてることを意味します。そのような状態にいる人は、さらに恵みを必要とすることを認識する必要があります。彼らはさらに深い流れを必要とします。それは、彼らが立とうとすることを放棄して、川を泳ぐためです。川を泳ぐ最上の方法は、川の流れに信頼し、自分の努力を忘れて、流れに自分を運ばせることです。満ちあふれる恵みを受ける時、これがわたしたちの経験となります。

川が流れるところでは、すべてのものが生き、命に満ちます(エゼキエル47:9)。この川は命の川であり、命だけが生かすことができます。

正常な召会生活では、多くの木が実を結び、こうして実に欠けることはありません。
あなたの地方の召会が生きているなら、実を結ぶ木があるでしょう。木が実を結ぶことは、あなたの召会に流れがあることのしるしです。木は生ける水のそばで成長します。あなたの地方召会に流れがあるなら、木は必ず満ちあふれる実を結ぶでしょう。


イザヤは、神の建造のためにキリストを享受することについて語っています

わたしたちは、わたしたちの堕落した状況の啓示と、栄光の中にあるキリストの啓示を見る必要があります

わたしたちはキリストを享受するために、わたしたちの堕落した状況の啓示と、栄光の中にあるキリストの啓示を見る必要があります。

主は言われます、「『さあ、来たれ、共に論じ合おう』とエホバは言われる。『たとえあなたがたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」(1:18)。

イザヤ書第57章20節から21節は言います、「しかし、悪しき者どもは荒れ狂う海のようだ。まことに、静まることができず、その水はぬかるみと泥を吐き出す。『悪しき者には平安がない』と、わたしの神は言われる」。

愛する聖徒たち、わたしたちが主を享受していないとき、わたしたちの存在から吐きだしているものはぬかるみと泥です。回復訳聖書のこの節のフットノートは次のように言っています。

「悪しき者どもの邪悪な状態は、彼らが主に来て主を食べ享受しないことです(参照55:1-2)。彼らは多くのことを行いますが、来て主に触れ、彼を取り、彼を受け、彼を味わい、彼を享受することをしません。神の目に、これほど邪悪なことはありません」。

神の目に最も悪いことは、わたしたちが彼を享受しないことです。

わたしは罪を犯していないと言う人は多くの良いことを行うかも知れませんが、主に来て彼を食べ、彼を飲み、彼を受け、彼に触れ、彼を味わい、彼を享受することをしません。それは神の目に最も邪悪なことです。わたしたちはみな主を享受しましょう。

主はわたしたちに最も良い意図を持っています。



御子の福音において神に仕える

ローマ1:9 わたしがわたしの霊の中で、御子の福音において仕えている神が、わたしの証人なのですが、わたしはいつも祈りの中で、あなたがたのことを絶えず覚えていて

ローマ人への手紙は、福音を宣べ伝えることが、罪人を神の子たち、またキリストのからだの肢体とし、彼らを助けて成長させ、彼らが諸地方教会におけるからだの生活の実行において、活動する肢体となることができるようにすることであることを見せています。

この書簡では3つの区分があります。

第1の区分:
贖いについて
・十字架がわたしたちと神の間のあらゆる問題を対処したこと
・わたしたちの罪が赦された
・神によって義とされた
・神に和解させられた
・神に受け入れられた

第2の区分:
命を与える霊としてのキリストについて
・キリストは命としてわたしたちの中におられる
・ご自身をわたしたちの霊とミングリングされた
・主とわたしたちは一つ霊である
・今やわたしたちは彼を飲み、享受し、彼で満たされる
・わたしたちは彼で浸透され飽和され得る
・わたしたちは聖別され、更新され、造り変えられ、同形化されて
 命の中で救われ、命の中で王として支配することができる

第3の区分:
キリストのからだを認識させる
・からだの中で生きる
・からだの肢体として共に組み合わされる
・霊的であることはからだよって測られ、試される




神の子供たち、神の(息)子たち、神の相続人

その霊ご自身わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供たちであることを、証ししてくださいます。(ローマ8:16)

信じる者たちの中に働いておられるその霊は、かつては罪のある子供たちであった信者たちが、今や神から生まれた神の子供たちであることを証ししてくださいます。

神の霊によって導かれているものはみな、神の子たちである
(ローマ8:14)

キリストにある信者は、まず神の子供たちですが、次第に成長して神の(成人した)子たちとなります。子たちは成長して、神のみこころの中を歩くように、わきまえがあるようになり、導きを受けることができます。

もし子供であるなら…わたしたちは神の相続人であり、またキリストと共同の相続人です   (ローマ8:17)

相続人は法的に成人であって、父の財産を受け継ぐ資格があります。相続人となる条件は、命の中で成熟していることです。人であれば、人の命に成熟している必要があります。神の子であるなら神の命と性質において成熟している必要があります。この円熟に至るためには苦難が必要です。

聖書は、人がキリストを信じ受け入れた時、神の命としてキリストを受け入れ、神から生まることを言っています。人の中に入られた霊なるキリストは命として信者の中におられます。この命は人の中で信者と共に成長し、信者は神の子供(child)から子(息子)へ、そして成熟した相続人へと至ります。これは神と人とのミングリングの物語です。

信者は努力して成長するのではありません。内なる命が成長するために、日々神の言葉を食べ、言葉の中の命の支配を受け、日常生活の中で命の感覚に従順に生きることで成長していきます。




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