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著作の紹介

___ウィットネス・リー兄弟の著作からの言葉___

ここのコーナーではウィットネス・リー兄弟の多くのメッセージの記録の中から、徒然に、ランダムに、わたしたちが読んで心に触れた個所を紹介いたします。

すべてを含む霊の供給

命は静かで正常な方法で働く

その霊の供給は満ちあふれ、すべてを含んであり、わたしたちのあらゆる必要を満たしますが、その霊はわたしたちの内側で、静かで優しい、正常な、普通の、また人の方法で働くということをわたしたちはやはり認識する必要があります。例えそうであっても、わたしたちの中での彼の働きはとても豊かで、力があります。わたしたちの間のある兄弟は英国で生まれ、中国で育ち、合衆国で教育されました。その結果、彼はかなり特異な人になりました。ある日彼は救われ、すべてを含む一服、イエス・キリストの霊を受けたのです。それは彼の中に入り、その日から絶えず彼に内住しました。日々このすばらしい霊は彼の内側でとても優しく正常な方法で働き、内側で彼に小さな感覚、知覚、表示を与えました。ある日、彼に自分の広東人の特異性について忘れるように告げる内なる感覚がありました。別の時には、自分はある事をやめるべきであるという別の小さな感覚がありました。後に、彼の内側には自分自身を主にささげるべきであるという小さな感覚がありました。さらに後に、彼の内側には台湾に移住するという小さな感覚がありました。彼はそこに行った時、とても特異で、絶えず召会を批判し、わたしたちを調整しようと努めていました。しかし、日ごとに、朝晩、少しずつ、彼の内側の何かが明るくし、照らし、彼を規制していました。ある朝、彼はある事を断念し、次の朝、彼はさらにある事を放棄しました。彼はわたしたちを調整しようとしましたが、結局は彼自身が調整されました。彼が経験したものは単なる神の霊ではなく、イエス・キリストの霊、すなわち、その中にキリストの人の性質、キリストの死の効力、キリストの復活の力の要素がある神の聖霊でした。内なる感覚に従うことによって、この兄弟の特異な広東人の性質は対処されました。それはキリストの死の効力によって死に渡され、キリストの十字架によって殺されました。

「三一の神、すなわち、父、子、霊に関して」

 ウィットネス・リー兄弟の教えは時々、誤解する人たちから異端扱いされることがあります。特に三一の神についてと、教会に関してです。誤解する人たちからの言葉をたどる前に、実際にウィットネス・リー兄弟が書いている書物を読むことが、真実を知ることになるでしょう。
以下は上掲の書物(日本福音書棒発行)の21-22ページからの引用です。

父、子、霊の三者すべては神である

一 御父は神です。ペテロの第一の手紙第一章二節は、「父なる神」と言います。エペソ人への手紙第一章十七節は「神、栄光の父」と言います。これらの節は、御父が神であることを告げています。

二 御子は神です。ヘブル人への手紙第一章八節は、「御子については、『神よ…』…と言われます」と言います。ヨハネによる福音書第一章一節は、「言は神であった」と言います。これらは、御子が神であることをはっきりと告げています。

三 その霊は神です。使徒行伝第五章三節から四節は言います、「なぜあなたはサタンに心を満たされて聖霊を欺き……あなたは人に対してではなく、神に対して偽ったのである」。この言葉は、その霊も神であることを明確に告げています。

 ですから、父、子、霊の三者すべてが神であることを、聖書ははっきりとわたしたちに啓示しています。しかしながら、これは、彼らが三人の神であることを意味するのではありません。神が唯一であることを、聖書がどのようにはっきりと、また明確に告げているかを、わたしたちはすでに見てきました。父、子、霊という三者がおられますが、三者は三人の神ではなく、ひとりの神です。これは本当に奥義です! それは計り知れないものです! しかし、主を賛美します。わたしたちは聖書の述べている事にしたがって、この奥義的なかたを単純に受け入れ、享受することができます!


「新約の結論第六巻」

その霊−彼の働き(十)項目60 新契約の命の法則を彼らに証しする

 わたしたちの新契約に関する天然の理解によれば、罪の赦しは一番目の項目です。しかしながら、それは最後の項目であり、補足的な項目でもあります。新契約は三つのことだけに関するものです。それはわたしたちの中に書かれた命の法則、神がわたしたちの神となり、わたしたちが彼の民となること、そして神を知る内側の能力です。これら三つの事柄は永遠のものです。」しかし、わたしたちはそれでも自分の罪を思い出すかもしれません。ですかから、神はわたしたちの罪と不義を思い出さないという補足が必要なのです。しかし、ここで重要な点は、その霊が新契約の命の法則を証しするということです。わたしたちが至聖所の中にいるとき、すなわち混ざり合わされた霊の中にいるとき、わたしたちは命の法則があることを認識します。その時わたしたちは、文字の律法の規定から解き放され、三一の神との交わりの中で、新契約の命の法則がわたしたちにとって実際のものとなります。

ウィットネス・リー著 上掲書 232ページ 日本福音書房発行



「長老訓練第1巻 新約の務め」

わたしたちの命となられるその霊なるキリストをもって召会は構成される

 また、召会と召会の内容を追求することにより、最終的にあなたがたは召会の構成の内容が実は一つの源を持った三つの項目から出ていることがわかるでしょう。第一に、召会の内容はキリストから成っています。第二に、それはその霊から成り、第三に、それは命から成っています。召会は、わたしたちの命となられるその霊なるキリストをもって構成されています。召会の内容の源、また召会の構成要素はまさに、キリスト、その霊、命です。まず最初に、あなたがたはどのようにキリストが召会の源であり、召会の構成要素そのものなのか、パウロの十四書簡において学ぶ必要があります。次に、同じようにして、どのように命を与える霊が召会の構成の源であり、要素であるかを学ぶ必要があります。最後に、どのように神聖な命「ゾーエ」の命が召会の構成の源と要素であるかを学ぶ必要があるのです。
 これらの項目はすべてパウロの文書の中で大きな極めて重要な項目ですが、それらは十分に取り扱われたとは言えません。わたしは、あなたがたがこれら十四の書簡を学ぶのを助けるため、いくらかの例証とヒントを与えたにすぎないのです。これらの事柄で、わたしはあなたがたに新約の二十七冊の書全部を同時に学ぶことは勧めません。パウロの文書を追求するだけで、あなたがたは非常に豊かにされ、すべての諸召会はあなたの教えの下で豊かになるでしょう。だれもがもうこれ以上貧しくなることのないために、わたしたちはこの豊かさをどれほど必要としていることでしょう。あなたがたは、わたしたちが語った主題以外のものを取り上げる必要はありません。豊かさはここにあります。

召会を生み出す務めの継続の中での、パウロの部分のための資格付け

 わたしたちが見るべき極めて重要な点は、新約の務めにおけるパウロの部分が、主イエスの務めの部分の継続であるということです。その唯一の違いは、主はパウロを用いて、キリストから召会へとさらに前進させたことです。使徒行伝や書簡において、主はペテロを用いて、彼自身の務めを継続させているのをはっきりと見ます。しかし、ペテロは少しばかり古さにしがみついてしまったと言わなければなりません。主は常に新の状態を知っておられます。その時すでにペテロには前進するすべがありませんでした。ですから、主は新しい人、すなわち、古いものを落とすことのできる人を必要としていたのです。それがタルソのサウロであったのです。使徒行伝と書簡は、どのようにして主がパウロを用いて、キリストから召会へとさらに前進させたかをはっきり示しています。
 これが新約の務めです。バプテスマのヨハネによって開始された時以来、新約の務めはその主要な部分であり、その基礎であるキリストへと進んでいったのです。そこから、召会を生み出し、召会を建造し、キリストを表現するからだを持つことへとさらに前進するために、新しい人が必要であったのです。この点は極めて重要です。

ウィットネス・リー著 上掲書 123〜124ページ 日本福音書房発行

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ウィットネス・リー全集 1963年第4巻」

第一編 わたしたちは内なる命を知る必要がある

★★神の願い−人の命となること
 神の願いと究極の意図は、ご自身をわたしたちの中に造り込み、それによってわたしたちが彼を表現し、代行することです。しかしながら、これが達成される道はただ一つしかありません。すなわち、それは神がわたしたちの中に入って、わたしたちの命となることです。今日クリスチャンにとっての大きな必要は、神の意図がキリストをわたしたちの命とすることであるのを見ることです。わたしたちは神を内容とする器、容器であり、神はわたしたちの中に入るべき内容です。神がわたしたちの内容となるためには、彼はわたしたちの命とならなければなりません。わたしたちが天然の誕生を通して両親から得た命は、真の命ではありません。その命は型、影にすぎず、真の命を指し示しており、その霊としてキリストにある神ご自身を示しています。
 手ぶくろの例証を用いて、この点を明らかにしてみましょう。手袋には指がありますが、その指は真の指ではありません。真の指は、手の指であって、手袋の指ではありません。たとえ手袋に多くの指があったとしても、それらの指は空です。同様に、わたしたちが肉体において生まれた命は、真の命ではありません。それは、真の命であるその霊としてキリストにある神ご自身を内容とする器にすぎません。これがわたしたちが再び生まれる必要がある理由です(ヨハネ3:3,7)。わたしたちが再び生まれる必要があるのは、単にわたしたちの人の命が罪深いからだけではありません。たとえわたしたちの人の命が罪深くなかったとしても、やはり再び生まれる必要がありました。なぜなら、わたしたちは人の命を保つだけでは十分ではなく、神聖な命を必要とするからです。人として、わたしたちはすでに人の命を保っています。今やわたしたちは神を内容とするよう神によって形造られた者たちとして、神ご自身である神聖な命を必要とします。神の救いの究極の目標は、わたしたちが神をわたしたちの命とすることです。これは事実ですが、もしわたしたちがほとんどのクリスチャンに、神の救いの究極の目標は何であるのか、なぜ神はわたしたちを救われたのかと質問するなら、多くの人がこのことに関してはっきりしていないことに気づくでしょう。わたしたちは、神が一つの目的のためにわたしたちを救われたことを認識しなければなりません。この目的とは、わたしたちが彼をわたしたちの命とすることです。神、すなわち、力ある、無限の、全能の神は、命としてわたしたちの中に入って、わたしたちの中に生きることを意図し、願ってさえいます。
 この真理を提示する多くの節が聖書の中にあります。ガラテヤ人への手紙第二章二〇節は言います、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。「キリストがわたしの中に生きておられるのです」の句は、まさに神がわたしたちにとって命であることを意味します。わたしたちはキリストが神の具体化であることを知っています(ヨハネ1:1,14、コロサイ2:9)。ですから、キリストがわたしたちの中に生きておられるなら、神はわたしたちの命であるのです。主ご自身がわたしたちに言われたように、彼が来たのはわたしたちが命を得、しかも豊かに得るためです(ヨハネ10:10後半)。また彼が言われたように、彼が父のゆえに生きているように、わたしたちは彼のゆえに生きなければなりません(6:57)。これらの節の意味は、神は来られてわたしたちの命となるということです。わたしの負担は、今日わたしたち一人一人が一つのことのために祈ることです、「おお、主よ、わたしの目を開いて、わたしがはっきりと一つのことを見ることができるようにしてください。それは、あなたがわたしにとって命であることです」。わたしたちは、三一の神がわたしたちにとって命であることを見なければなりません。わたしたちはこのことを、神の目標として、またクリスチャン生活における中心的な事柄として見なければなりません。クリスチャン生活における中心的な事柄とは、聖、力、その他の霊的な事柄を得ることではありません。クリスチャン生活の中心とは、その霊としてキリストにある神に、わたしたちの命としてわたしたちの中に生きていただくことです。

ウィットネス・リー著 上掲書 10〜12ページ 日本福音書房発行

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