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王国に関して

王国に関して

王国と召会(教会)

今、わたしたちは王国と召会との相違、あるいは関係を見なければなりません。これをはっきりと識別し、理解するのは非常に難しいです。わたしたちはいかなる種類の命も一つの王国であるので、王国は命そのものであることを見ました。神の王国は神の命ですが、召会は命ではなく、命も召会ではありません。召会は命の産物です。神聖な命は王国であり、この命が召会を生み出します。新約の概念は、福音が王国をもたらすことです。福音は召会をもたらすのではなく、むしろ福音が召会を生み出すのです。ですから福音は神の王国をもたらし、福音は神の召会を生み出すのです。それゆえに福音は新約において王国の福音と呼ばれています(マタイ4:23、9:35、24:14)。福音が召会の福音であると告げている節は、新約の中にありません。王国の福音は召会を生み出し、産出します。なぜなら王国は命そのものであり、召会は命の結果、生み出したものであるからです。あなたは見ることができるように、王国と召会は非常に密接に関連しています。新約は平和の福音の宣べ伝えに言及しています(エペソ2:17)。この平和は召会を生み出します。しかしながら、召会を宣べ伝えると告げている所はどこにもありません。聖書は罪の赦しを宣べ伝えること(ルカ24:47)、王国の福音の宣べ伝えを告げています。しかし、決して召会を宣べ伝えるとは告げていません。なぜなら召会は宣べ伝えられたもの産物であるからです。

マタイによる福音書16章18節と19節において、ペテロが御父から受けたキリストの啓示の上に、主は彼の召会を建造する、とペテロに言われました。この直後、主はペテロに言われました、「わたしはあなたに天の王国のかぎを与える」(19節)。命のじっさいとしての王国なしに、召会は決して産出され得ませんし、また建造され得ません。召会を生み出すために、また召会を建造するために、わたしたちは王国を必要とします。王国は事実上、召会の実際です。しかしながら、召会は王国の実際であるとは言えません。わたしたちは王国が召会の実際であると言うことができるだけです。

このような基本的理解をもって、わたしたちは新約聖書の多くの節を理解することができます。新約の福音の最初の宣べ伝えは、悔い改めが必要である、天の王国は近づいたからである、と人々に告げています(マタイ3:2、4:17、10:7)。召会は近づいた、それゆえに悔い改めよ、という節はどこにもありません。バプテスマのヨハネ、イエス、十二使徒は、王国は近づいたと人々に告げることによって新約の福音を開始しました。これは時が来て、神がご自身を命として人々に分与するために来られたことを意味します。福音は命としての神をもたらします、そして命は王国です。王国は命が動き、働き、支配し、統治するための命の領域です。命はその目的を達成するためであり、この領域が王国です。実際に、命の領域としての王国は命そのものです。もし人が動物園のすべての動物を取り去るとしたら、そこには動物の王国はありません。動物がいる時、そこに動物の命があり、動物の命の領域は動物の王国です。福音は神聖な命をもたらし、神聖な命には命が目的を達成するため、それが動き、働き、支配し、統治するための領域があります。これが王国であり、そしてこの神聖な命とそれの領域が召会を生み出すのです。


ウィットネス・リー著「長老訓練第二巻 主の回復のビジョン」P61-63 日本福音書房発行

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