西東京に在る教会ホームページにようこそ

以前の記事を読む>>

もとのページへ

特別集会が持たれました

主題:ローマ人への手紙における神の福音に関する重要な点

メッセージから、ごく一部ですが、ご紹介します。

キリストご自身は唯一のかしらです。

キリストにはからだもあります。

信者の中のキリストがからだです。

かしらとからだは、命、性質において同じです。

わたしたちは、罪深く、この世を愛しているかもしれませんが、神の完全なみこころは決して変わりません。

神のみこころは、キリストのからだを得ることです。

どのようにして彼はみこころを成就するのでしょうか?

その答えは、ローマ人への手紙全体です。

それは、神の福音―罪人を神の子たちとして、キリストのからだに構成し、地方召会として表現することです。

【ローマ人への手紙のおける神の福音に関する神聖な思想とは】

神が人となったのは

神の全体的な救いにおいて、

罪人が贖われ、

再生され、

聖別され、

更新され、

造り変えられ、

同形化され、

栄光化されて、

神の子たちとなり

命と性質において神と同じになって、

キリストのからだの肢体となるためです。



ローマ人への手紙における神の福音に関する重要な点

神が人となったのは神の全体的な救いにおいて、罪人が贖われ、再生され、聖別され、更新され、造り変えられ、同形化され、栄光化されて、神の子たちとなり、命と性質において、神と同じになって、キリストのからだの肢体となるためである

ローマ人への手紙御言葉

3:24 価なしに、彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです.

5:10 というのは、わたしたちが敵であった時に、御子の死を通して神に和解させられたからには、和解させられている今、彼の命の中で救われるのは、なおさらのことです.

8:29 なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.

12:02 またこの時代の様にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです。

12:05 わたしたちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。

ローマ人への手紙の主題

神の福音…罪人を神の子たちとならせ、キリストのからだに構成し、キリストのからだは諸地方教会として表現される


キリストの復活

キリストが神であることでは、彼は死人の中から復活しました。

このために、キリストが死んで再び生きられたのは、彼が死んだ者と生きている者の主となられるためです。(ローマ人への手紙14:9)

キリストが人であることでは、彼は死人の中から復活させられました。

…それは、キリストが父の栄光を通して死人の中から復活させられたように、わたしたちも命の新しさの中を歩くためです。(ローマ人への手紙6:4)


キリストの復活における3つの偉大なこと

1 神はキリストを彼の長子として生み出しました。

 なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.
(ローマ08章29節)

2 神はキリストと共に多くの子たちを生み出しました。

 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの神また父.この方はその大いなるあわれみにより、イエス・キリストの死人の中からの復活を通してわたしたちを再生し、生ける望みを持たせ、
(Ⅰペテロ01章03節)

3 神はイエス・キリストを命を与える霊としました

 そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。
(Ⅰコリント15章45節)




新エルサレムの中心

分与する三一の神の流れである、命の水の流れとして、神と小羊の御座から、聖なる都の大通りの中央を流れる

 啓示録第22章第1節は言います、「御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」。ここで見るように、新エルサレムにおいて、わたしたちは命の水の泉ばかりでなく、命の水の川を享受するでしょう。泉は源であり、川はその流れです。そして、源も流れもどちらも命の水です。命の水は、その霊として、自ら彼の贖われた民の中に流れ込み、彼らの命と命の供給となられるキリストの中におられる神を象徴します。それは、打たれた岩から流れ出た水によって予表され(出エジプト17:6、民数記20:11)、また主イエスの刺し通された脇から流れ出た水によって象徴されます(ヨハネ19:34)。啓示録第22章1節で、この命の水は神と小羊の御座から流れる川となって、新エルサレム全体を供給し、浸透します。こうして、新エルサレムは神聖な命に満ち、神の命の栄光の中で、神を表現するでしょう。

#ref(): File not found: "s-090506 306.jpg" at page "以前の記事を読む>>"

 小羊・神の御座から流れ出る命の水の川は、命を与える霊としての神の霊の流れ以外の何かではありません。第22章1節で、わたしたちは三一の神――神、小羊、川を見ます。父なる神は源です。御子である小羊は贖い主です。川はその霊です。ですから、わたしたちは源としての父、水路としての御子、流れとしてのその霊を持っています。これは、第22章1節には、三一の神の流れがあるという意味です。これは、三一の神がご自身をわたしたちに分与することを描写する絵です。彼はご自身から流れ出て、彼の贖われた者たちの中へ流れ込みます。この三一の神の分与が、神の統治する御座から出て、わたしたちにもたらされるのは、神の分与が神の行政によることを示します。           
 命の水が小羊・神の御座から流れるとは、すなわち、それが神ご自身から流れているということです。新エルサレムには小羊の中におられる神がおられ、この尊い神から命の水、命を与える霊が流れています。これが三一の神の分与です。神はご自身をわたしたちに分与する前に、わたしたちを贖わなければなりませんでした。ですから、啓示録第22章における絵は、贖う神はまた命を分与する神でもあることを啓示しています。小羊は贖いを象徽しており。命の川は命の分与を象徴しています。永遠にわたって、わたしたちの神は贖う神であり、命を分与する神です。新しい天と新しい地における新エルサレムにおいて、わたしたちの神は命の川(命を与える霊)として流れる贖う小羊であって、彼の命を都のあらゆる所に分与されるでしょう。
 この命の水の川は、新エルサレムの大通りの中央を流れています。聖なる都の大通りは、純金――神聖な性質を象徴する――でできています(21:21)。都の大通りを流れる命の水の川が象徴するものは、神の贖われた民の日常生活のための、神聖な性質において、特別な方法で流れる神聖な命です。神聖な命の流れのある所には、聖なる道としての神聖な性質があり、彼の民はそれによって歩きます。また、神聖な性質による聖なる道がある所には、神聖な命が流れています。神聖な命と、聖なる道としての神聖な性質は常に一緒です。ですから、命の水の川はこの神聖な道にしたがって飲むことができますし、またその神聖な道を歩むことによって、わたしたちはそれを享受します。           

ウィットネス・リー著「新約の結論」第11巻p211-212 より




栄光の要求

ヘブル人への手紙10:19
こういうわけで、兄弟たちよ、わたしたちはイエスの血によって、大胆に至聖所へ入ります。

ケルビムは神の栄光がキリストから輝き出ることを表徴します。ですから、神がケルビムの間から彼の民に語ることは、彼が彼の栄光の中でわたしたちに語ることを意味します。神は他のいかなる場所、他のいかなる状態においてもわたしたちと会うことはできません。神がわたしたちと会われる時はいつも、その会うことは彼の栄光の中で起こらなければなりません。わたしたちはこれを、自分の経験から証しすることができます。わたしたちは神と会うときはいつも、、栄光の中、契約の箱の蓋の上のケルビムによって表徴されたような栄光の中にいると感じます。わたしたちは悔い改め、主イエスを信じた時に、栄光の領域にもたらされました。神は決して暗やみの中でわたしたちと会いません。その反対に、神はつねに栄光の中でわたしたちと会い、栄光のケルビムの間からわたしたちに語ります。

ウィットネス・リー著 「出エジプト記ライフスタディ」メッセージ86 より

なだめの場所

コリント人への第2の手紙4:06 
 なぜなら、「暗やみから光が照りいでよ」と言われた神は、わたしたちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださったからです。

 ケルピムは神の栄光がキリストから輝き出ることを表徴します。ですから、神がケルビムの間から彼の民に語ることは、彼が彼の栄光の中でわたしたちに語ることを意味します。神は他のいかなる場所、他のいかなる状態においても、わたしたちと会うことはできません。神がわたしたちと会われるときはいつもその会うことは彼の栄光の中で起こらなければなりません。わたしたちはこれを、自分の経験から証しすることができます。わたしたちは神と会うときはいつも、栄光の中、契約の箱の蓋の上のケルビムによって表徴されたような栄光の中にいると感じます。わたしたちは悔い改め、主イエスを信じた日に、栄光の領域にもたらされました。神は決して暗やみの中でわたしたちと会いません。その反対に、神は常に栄光の中でわたしたちと会い、栄光のケルビムの間からわたしたちに語ります。
 さらに、出エジプト記第25章にはケルビムの形、寸法、重さについて、何も告げられていません。これは、キリストの輝きの栄光は測ることができないことを示します。それはまた、キリストの栄光が説明できないことを示します。わたしたちはケルビムを記述することができないように、キリストの輝きの栄光を説明することはできません。しかしながら、ケルビムには顔と翼があったという事実から、この栄光は命のないものではなく、生きているものであることを知ります。キリストの栄光は生きています。わたしたちは、この栄光には顔、目、翼があるとさえ言ってよいでしょう。神がわたしたちと会い、わたしたちと語られるとき、わたしたちは、栄光がわたしたちを見つめており、この栄光は生きているという感覚を持つことを、わたしたちは経験から知ります。実は、この栄光とはキリストご自身です。ですから、出エジプト記第25章のなだめのおおいの一般的な概念は、キリストは神聖な栄光の輝きであること、神はこの栄光の中でわたしたちと会い、わたしたちと語ることを表徴するということです。

ウィットネス・リー著 「出エジプト記ライフスタデイ」メッセージ86 より引用

肉と霊

罪の混合物

 追い求めるクリスチャンで、しばしば自分の霊的進歩に失望する人たちを助けるために、わたしたちは、肉には善なるものはないことを強調する必要があります。彼らが聖くなろうと願えば願うほど、ますます聖くなくなるようです。彼らは主と一つとなることを切望しますが、主からではない多くの事を行なってしまいます。彼らはつきまとう罪に打ち勝つことを願いますが、罪が彼らに打ち勝っているようです。ですから、彼らは自分の状態に失望し、自分に嫌気がさします。
 クリスチャンが主を追い求めること、霊的であろうと熱望すること、すべての消極的な事に打ち勝つことは必要です。それにもかかわわたしたちは罪深い混合物、罪、死、サタンで構成されたわたしたちの肉によって妨げられ、ざ折させられます。この邪悪な混合物を対処することは極めて困難です。罪、死、サタンが人の体に加えられる時、その結果は肉です。この混合物はわたしたちの中にあるだけではなく、わたしたちの存在の一部分です。

力を尽くして霊に戻る

 おそらくあなたは、わたしが過去そうであったように、なぜ主はこの罪深い混合物をわたしから取り去ってくださらないのかと思っているでしょう。主は賢明であり、ご自分が行なっていることを知っておられます、肉は罪深く、醜いのですが、主はそれを取り去ることをことさら拒まれます。主がわたしたちに肉を残して置かれるのは、わたしたちを絶えず失望させるためではありません。肉が残っていることを主が許しておられるのは、わたしたちが主に助けを求めずにおれなくさせるためです。もし肉がなかったなら、わたしたちはそれほど力を尽くして主の御名を呼び求めようとしないでしょう。もし肉の問題がないなら、わたしたちはあまり祈ろうとしないのではないかとわたしは思います。
 わたしたちは、夫や妻や子供たちに対してかんしゃくを起こすのは悪いことを知っています。しかしながら、わたしたちが主を愛し追い求めるなら、かんしゃくを起こすことさえ、わたしたちのために働くのです。なぜなら、それはわたしたちを強いて主に行かせるからです。かんしゃくを起こした後、わたしたちは数時間も恥じ入り、恥ずかしさのあまり祈ろうとしないかもしれません。しかしながら、結局、主に対するわたしたちの強い願いは、わたしたちをあえて祈らせ、わたしたちはとても良い祈りをするでしよう。このことで、わたしたちは実は肉によって助けられるのです。
 わたしの務めの初期に、ある聖徒たちが霊的によく振る舞っていない時、わたしはよく悩まされました。後ほど、わたしはこれによって悩まされないことを学びました。もしわたしたちが常によく振る舞っているなら、あまり霊の中に入らないことを、わたしは認識しました。もしあなたに何の失敗もないなら、あなたは実に多くの時間を費やして、自分は何と良いのだろうと思うでしょう。あなたは力を尽くして霊に戻ることをしないでしょう。こういうわけで、イスラエルの子たちが良き地に入ってから、主はすべての敵を絶滅されなかったのです(士師2:21-3:4)。神は熟慮して、ある敵が残るのを許されました。それはイスラエルの子たちを強くし、闘うために彼らを訓練するためでした。同じ原則で、肉はわたしたちの益のために残されています。これは、わたしたちは善を来たらせるために悪を行なうべきであることを意味するのではありません。それは、主が彼の知恵と主権によって、肉を積極的な目的のために用いられることを意味します

神は肉におけるわたしたちの失敗を用いる

 主を追い求める人たちはみなすべての肉に悩まされます。肉はわたしたちすべてに多くの失敗をさせます。しかし、わたしたちは、失敗を通して、主の何かがわたしたちの中へと造り込まれるのです。わたしは、おもにわたしの失敗を通して、年ごとに神がわたしの中で増し加わってこられたと、証しすることができます。わたしは失敗をすればするほど、なおさら良いとはあえて言いません。しかしながら、わたしは、神はわたしの失敗を用いて、わたしたちが主の中で成長するのを助けられると言うことができます。しかしこれは、わたしたちがただ主を愛し、彼を追い求めるならばのことです。わたしたちが主を追い求め、成功を経験しても失敗を経験しても、平安であることができるでしょう。
 わたしたちはみな熱心に、罪、死、サタンを支配することを追い求めなけれぱなりません。しかしながら、これら三つの敵を命の中で支配しようと熱心に努めたとしても、成功よりも失敗をより多く経験するでしよう。失望してはなりません。あなたが主を愛し、彼を追い求めている限り、主はあなたの失敗をさえ用いて、ご自身をあなたの中へとさらに造り込まれるでしょう。わたしたちの多くは、成功を通してよりも失敗を通して、主をさらに獲得したと証しすることができます。わたしたちの失敗はわたしたちを主に追いやり、力を尽くして霊の中へ入るようにさせます。結局そのように力を尽くして霊にもどることによって、わたしたちは完全に主で浸透されるでしょう。罪深く、醜い肉によって与えられる助けがないなら、わたしたちはそれほど力を尽くして主を獲得し、わたしたちの中に造り込んでいただこうとしないでしょう。
 わたしは聖、霊性、勝利の生活について多くの本を読みました。わたしはこれらの本で勧められているすべての方法を試みました。これらの方法のどれも、完全に成功したものはありませんでした。わたしたちは聖であり、霊的であり、勝利を得なければならないことを知っていますが、それに達しないで苦しむのです。わたしたちの目標は聖であること、霊的であること、勝利です。しかし神の標は、わたしたちの中にご自身を造り込むことです。神はわたしたちの中にご自身を造り込む機会を持たれる限り、わたしたちの状態がすばらしいかあわれであるかには、あまり注意をされません。彼はしばしば、わたしたちの状態があわれむべき時に、わたしたちの中で彼が願っていることを行うさらに大きな機会を持たれます。わたしたちの状況や状態がすばらしい時、わたしたちは主の内なる働きに対して閉ざしているかもしれません。わたしはあなたが霊的にあわれな状態にあることや低い状態にあることを奨励するのではありません。しかし、あなたがそのような状況や状態にある時、神はあなたの状態が良いときよりも、さらにご自身をあなたの中に造り込むことができると、わたしは保証することができます。こういうわけで、わたしたちがある困難な状況にあるとき、さらに主に開かれており、さらに進んで彼に戻り、さらに進んで彼にご自身をわたしたちの中に造り込んでいただくのです。

ウィットネス・リー著「ローマ人への手紙(二)肉と霊」より引用

新エルサレムに入る者たちは、命の水の泉から飲むことができる

新エルサレムは物質の都ではありません。啓示録は新エルサレムを霊的なしるしとして啓示しています。

新エルサレムに入る者たちは、命の水の泉から飲むことができます。啓示録第21章6節後半は「渇く者には、命の水の泉から値なしに飲ませよう」と言います。また、第22章1節は、「御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」と言います。命の水は、わたしたちの永遠の飲み物である命を与える霊です。実際には、命を与える霊は、わたしたちの飲み物となるため流れ出た三一の神ご自身です。この永遠の飲み物は水晶のように透明です。命を与える霊には不透明なものは何ひとつありません。わたしたちがこの永遠の霊を飲む時、すべてのものは水晶のように透明になります。

#ref(): File not found: "s-header_leaf_blue02.jpg" at page "以前の記事を読む>>"

 第22章1節の命の水の川は、手順を経られた三一の神が、新エルサレムの構成要素である彼の贖われ民に浸透するために、キリストの中で、命を与える霊として(ヨハネ7:38-39、Ⅰコリント15:45)、ご自身を流し出しておられることの象徴です。永遠において、すべての贖われた民は、彼らの永遠の分である命の水を飲むでしよう。これは、永遠の将来においてでさえ、わたしたちは依然として神聖な三一の神聖な分与の供給を必要とすることを示します。その分与は命の水の泉となります。泉は神ご自身であり、命の水はこの神の流れです。新エルサレムでは、三一の神ご自身が命の水として流れ出て、永遠にわたしたちを供給し続けるでしょう。

ウィットネス・リー著「新約の結論」メッセージ187より引用

召会(教会)はキリストの増し加わり

神が天地や多くのもの、そして人を造られたのは、ただキリストが彼の被造物の中に入り、すなわち、人の中へと受肉し、ご自身を人に分け与え、人の一部分をご自身の一部分とするためでした。天と地と多くのものなしに人が存在することはできなかったでしょう。また人の存在なしには、キリストが増し加わることも不可能だったでしょう。キリストが増し加わるために人を持つには、環境としての宇宙が必要です。その環境の中で、その環境によって、人は存在することができます。

もし天にある太陽が地球からほんの少しだけ遠くにあるなら、わたしたちは寒さで死んでしまうでしょう。また太陽がもう少し遠くにあるなら、わたしたちはみな焼け死んでしまうでしょう。しかし今、地上の温度はわたしたちが生きるのにちょうど良いのです。その上、動植物のすべてのビタミンも、人が生存するために神によって意図されたものです。わたしたちがそのような観点で宇宙について学ぶなら、わたしたちはとても幸いに感じるでしょう。そしてまた、全宇宙が神によって造られ、按配された目的は、人が生存するためであり、それはキリストが来て受肉して人となり、彼ご自身を人に分け与えて、人の一部分を彼の増し加わりであるご自身の花嫁とするためであることを見るでしょう。

今やわたしたちは、召会がこの宇宙で中心的な地位を占めていることを見ることができます。宇宙は人のためです。人は召会のためです。そして召会はキリストの増し加わりです。

  (ウィットネス・リー全集 1963年第3巻上p431-432より)



神の福音は神聖な真理の総合計です

福音とは良い知らせのことです。
実は良い知らせとはイエス・キリストです。
福音とは御子イエス・キリストに関してです。
聖書はキリストについて証ししています。
ですから、福音とはイエス・キリストであり、聖書全体の証しであり、真理全体です。

福音はまずイエス・キリストによって神がわたしたちの罪を赦してくださったことです。しかし、これがすべてではありません。

キリストの救いの豊かさは言い尽くすことができませんが、まず、旧約で3つの約束がなされていました。
それは女の子孫(種)の約束、これはキリストが悪魔に勝利する約束です。
次にアブラハムの子孫(種)の約束、これは信じる者がキリストのあらゆる豊富を受け継ぐことです。
3つめはダビデの子孫(種)の約束で、神の命を受けた信者が命の中で地を支配することです。

聖書のあらゆる記事はキリストに関してです。キリストの豊かさにあずかるとき、福音はわたしたちの思いをはるかに超えた豊かなものであることを知ります。福音である聖書を読みましょう

オンライン聖書



キリストに同形化される三段階

キリストがわたしたちをご自身に同形化するためにとられる三つの段階があります。ヨハネによる福音書第三章三節から七節によれば、第一段階とは、わたしたちがキリストを救い主として受け入れるとき、彼がわたしたちの霊においてわたしたちを再生することです。コリント人への第二の手紙第三章十八節によれば、第二段階とは、キリストがわたしたちを再生した時から、わたしたちの魂においてわたしたちを造り変えることです。それはわたしたちの思い、意志、感情を含みます。今日、その霊である主は絶えず働いて、わたしたちを造り変えておられます。わたしたちは栄光から栄光へ、キリストのかたちへと造り変えられつつあります。十七節は言います、「主はその霊です。そして主の霊のあるところには、自由があります」。その霊によって、また自由を伴って、主は絶えず働いてわたしたちを造り変えます。すなわちわたしたちの魂を造り変えます。これはローマ人への手紙第十二章二節によって確認されます。それは、わたしたちは思いが新しくされることによって造り変えられなければならないと言っています。思いは魂の主要部分です。わたしたちは、わたしたちの霊において再生されました。そして今、わたしたちの魂において造り変えられ、変化させられ、新しくされればされるほど、わたしたちはますます神聖な命において成長します。クリスチャンの成長とは、造り変え、命における変化、魂における変化、すなわち思い、意志、感情における変化です。わたしたちの造り変えの完成は、わたしたちが神の長子であるキリストのかたちに同形化されることです(ローマ八・二九)。

(ウイットネス・リー全集 p134-135 JGW日本福音書房


神聖な性質と混ざり合った性質

 彼はその栄光と美徳を通して、尊く、際立って偉大な約束を、わたしたちに与えてくださいました。それは、これらの約束を通して、あなたがたが情欲によるこの世の腐敗から逃れて、神聖な性質にあずかる者となるためです。     (第2ペテロ1:04)

キリストを命として受け入れる前に、人は二つの命とその性質を持っています。
一つは人が創造された時に神の息を吹き込まれ、人が生きた魂になったときに与えられた人の命とその性質です。
もう一つは、創造の後、命の木から食べるはずだったのを阻止しに来た蛇によって注入されてしまった命、すなわち善悪知識の木による邪悪な命とその性質です。
後者の命は前者の命よりも強いので、人は善であろうとしますが、結果として邪悪な命に呑まれてしまいます。
この邪悪な強い命は必ずしも悪だけではなく、邪悪な善でもあります。
この二つの命の戦いに人は疲れます。このことを聖書の中でパウロという人が次のように言っています。

 わたしは自分のしていることがわかりません.なぜなら、わたしは自分の欲することを行なわず、かえって自分の憎むことを行なっているからです。(ローマ人への手紙7:15)

しかし感謝します。主イエスはわたしたちの中に命として入ってきてくださいました。
主の命は人としての生活、死、復活、昇天の手順を経て、命を与える霊としてわたしたちの中に信仰を伴って入ってきてくださいました。
今や彼はわたしたちの中で、命の霊の法則です。
この命の結合は接ぎ木のようです。
わたしたちは新陳代謝的に有機的に主の命の神聖な性質にあずかるようになります。
肉の中、善悪知識の邪悪な性質を生かし出すことは、神を喜ばせることができません。
しかし、神の霊がわたしたちの中に住んでいるなら、わたしたちは肉の中にいるのではなく、霊の中にいます。
聖書の中の偉大な約束に目をとめ、それらの言葉を食べ続けるならわたしたちは神聖な性質にあずかるようになります。
この祝福はすべての人が受けられます。
命を与える霊である主イエスを受け入れる人はみなこの祝福にあずかることができます。



ぶどうの木に住む

 わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。人がわたしの中に住んでおり、わたしもその人の中に住んでいるなら、その人は多くの実を結ぶ.わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからである。   (ヨハネによる福音書第15章5節)

ぶどうの木から離れたなら、枝であるわたしたちは何もすることができません。ぶどうの木の枝はそれ自身では生きるすべがありません。枝はぶどうの木から離れたならすぐに枯れて、死んでしまうからです。ぶどうの木とその枝の関係は、主イエスとわたしたちのとの関係を描写しています。彼から離れたなら、わたしたちは無であり、何も持っておらず、何をすることもできません。わたしたちが何であり、何を持ち、何を行おうとも、それはそれはすべて主の中にあって、主によってでなければなりません。そういうわけで、わたしたちが主の中に住み、主がわたしたちの中に住まわれることは、極めて重要なことです。わたしたちは、自分自身の中にでは何も行うべきではなく、すべてのことをぶどうの木の中に住むことによって行うべきです。ぶどうの木であるキリストこそ、わたしたちの日々の享受のための、すべてを含む分け前です。わたしたちは主にとって枝であり、主はわたしたちにとってぶどうの木であるのですから、わたしたちは彼の中に住み、また「彼をわたしたちの中に住まわせなければなりません。そうすれば、経験的にキリストはわたしたちにとってすべての享受となられるでしょう。
 
神のキリストの中に住むことは、極めて重要な問題です。実を結ぶかどうかも、住むことにかかっています。わたしたちがキリストの中に住むかどうかは、わたしたちがぶどうの木の枝であるという明確なビジョンを見ているかどうかです。ぶどうの木の中に住みたいなら、まずその事実を見なければなりません。わたしたちは、自分がすでにキリストの中にいることを見たなら、彼の中に住むことができるでしょう。そういうわけで、わたしたちはこのように祈る必要があります、「主イエスよ、わたしがぶどうの木の枝であることをはっきりと見せてください」。

いったん、わたしたちがぶどうの木の枝であるというこの事実を見たなら、わたしたちはぶどうの木との交わりを維持する必要があります。どのような絶縁物であっても、わたしたちをぶどうの木の豊かな供給から切り離す物となり得るのです。例えば、少しばかりの不従順、罪、罪深い考えさえ、わたしたちをぶどうの木の豊富から切り離す絶縁となることができます。まず、わたしたちは枝であることを見なければなりません。次に、わたしたちは「主との交わりを維持する必要があります。彼とわたしたちのとの間には何の妨げもあるべきではありません。どんなにさ細なことであったとしても、わたしたちをぶどうの木の豊富から切り離すことができることを、わたしたちは経験的に知っています。ですから、わたしたちは祈る必要があります、「主イエスよ、わたしとあなたとの間に、あなたの豊かな供給から切り離す物が何もありませんように」。

ウィットネス・リー著「新約の結論七」 JGW日本福音書棒発行 P164-165より)

クリスチャン

その名称ははじめはそしる言葉でした

使徒行伝で、アンテオケの弟子たちがそのようなニックネームをつけられたのがこの名称の始まりです。当時このような名前をつけられたのは、彼らが未信者たちの目に強力なキリストの証しに映ったからに違いありません。

以下はウィットネス・リー兄弟の言葉です

クリスチャンとして、わたしたちはキリストと有機的な結合、命における有機的な一を持ちます。わたしたちがキリストを信じたとき、わたしたちと彼との間に、一つの有機的な結合が生じました。キリストを信じることによって、わたしたちは彼の中へと信じ、それによって、彼と一つ霊(?コリント6:17)となりました。これが、「有機的な結合」という言葉の持つ意味です。

…聖書の中心思想は、キリストがわたしたちの命となって、わたしたちが彼をわたしたちの生活として生きなければならないということです。クリスチャンの目標は、キリストを生きることです。さらに、神が彼のエコノミーの中でわたしたちのために定めた運命は、わたしたちがキリストを生きることです。神のエコノミーは、彼ご自身をわたしたちの中に分与し、ご自身をわたしたちの中に造り込むことであり、それはわたしたちがキリストを生きるため、彼をわたしたちの命また命の供給として取るためです。神の願いは、わたしたちがキリストを生きることです。わたしたちが真に主を追い求めるならば、神が願っておられるのは、わたしたちの行いや振る舞いや徳ではなく、キリストであることがわかる日が来るでしょう。キリストがわたしたちの命、日々の歩み、すべてとならなければなりません。

キリストを生きる秘訣は次のことを知ることです。すなわち、クリスチャンとして、わたしたちが得た命は別なかたの命であり、しかも、その命を彼が生きるのでなく、わたしたちが生きるということです。二人のパースンがいますが、生きるのは一つの命です。それはキリストの命であり、彼はわたしたちにそれを生かしだしてもらいたいのです。キリストとわたしの二人が、一つの命と一つの生活を持ちます。わたしたちはキリストの命によってキリストを生きるべきです。命は彼の命ですが、生活はわたしたちの生活です。これが正当なクリスチャン生活です。

わたしとキリストは二人ですが、二つの生活を持つべきではありません。二人が持っている一つの命は彼の命ですが、その生活はわたしたちの生活です。わたしたちの生活は、彼の命による生活であって、自分自身を表現せずに、彼を表現しなければなりません。そういうわけで、クリスチャン生活とは二つのパースンがありながら、ただ一つの命と一つの生活がある生活です。命は主の命ですが、生活はわたしたちの生活です。

         (ウイットネス・リー著「新約の結論(七)」121-124ページ)



信者とは?

キリストを神の御子として信じた人たちの持つ信仰

わたしたちは、新約における信仰の意味によって深く印象づけられる必要があります。
最初、信仰はわたしたちに語られた言葉としての神でした。
神の言葉を通し、また神の言葉によって、わたしたちはキリストの中で神を注入されます。
その結果、何かがわたしたちの内側で起き上がります。
これが信仰です。
次に信仰はわたしたちの中で働き、わたしたちを三一の神との有機的な結合へともたらします。lこの有機的な結合を通して、神は絶えずわたしたちの中に染み通り、注入されていきます。
その結果、わたしたちは神聖な命と神聖な性質を持つ神の子たち、キリストの肢体、新しい人の一部となります。
全体として、わたしたちは神の家、キリストのからだ、新しい人になります。

これが信仰の中にある神のエコノミーです。

ウィットネス・リー著「新約の結論七」p104-105)


西東京に在る教会はキリストの一つのからだの立場にいます。

キリストのからだは宇宙で一つであり、この一を地方ごとに証しします。

 わたしたちは地方を神の行政区分の単位と認め、宗派を形成せず、すべての信者と交わりを持ちます。歴代、現在、これから救われる全世界のすべての信者をキリストの一つからだの肢体と認めます。地方を単位をしているのは聖書がそのように言っているからです。新約聖書の各書簡の宛先はコリントに在る教会、エペソに在る教会、コロサイに在る教会……であり、例外なく地方ごとに一つの教会です。ガラテヤは大きな州なのでガラテヤに在る諸教会となり、複数あります)。この立場で立つ教会を地方教会あるいは地方召会ともいうことがあります。しかし、それは主義ではありません。
 この立場、地方教会の立場は一度失われましたが、主は徐々に回復の道を用意されました。そして20世紀に入り、ウオッチマン・ニー兄弟はこの立場が聖書の定めている立場であることを明確に見せられました。聖霊と彼のリーダーシップのもと、地方の立場による教会生活が実行されました。この道はその後、ウィットネス・リー兄弟に引き継がれ、主が支えてこられました。二人のメッセージは記録され、Living Stream Ministry が版権管理をしています。これらの書物に著された真理は多くの著名な人たちによって支持されています。  参照<An Open Letter>
 これらの真理はわたしたちを自由にし、人と人との交わりを自由にし、人が創造された目的を満たします。
当サイトを訪問してくださったすべての人が、真理に入る良い機会を得られますように。


地元にあって合一である立場に立つ教会

からだと花嫁の関係

 主の目には、教会には二つの地位があります。命から言えば、教会はキリストのからだです。しかし、教会の未来について言えば、教会はキリストの花嫁です。キリストと教会との結合から言えば、教会は彼のからだです。キリストとの親密な関係に関して言えば、教会は彼の花嫁です。
 キリストと教会との一を神の言葉が語るとき、キリストがかしらであり、教会がそのからだであることを、わたしたちは見ます。御言葉がキリストと教会との違いを見せる時、わたしたちは教会をキリストの花嫁として見ます。アダムとエバについては、二人は「一体」になると言われました。しかし、彼らは依然として二人の人でした。神は依然として彼らを二人と見なされました。アダムはやはりアダムであり、エバはやはりエバでした。彼らは結合されて一つとなりました。これが教会とキリストとの関係です。彼らは、一人から二人になりました。そして、二人から一人となりました。初めに神が人を創造された時、神は男と女とに造られました。エバはアダムから出て来ました。ですから、彼女とアダムは一でした。それと全く同じように、教会はキリストから出て来ます。ですから、教会とキリストも一です。しかし、アダムとエバは、同時に両方とも存在したのですから、彼らの間には区別がありました。同じように、教会とキリストも同時に存在しますから、彼らの間にも区別があります。一について言えば、彼らは一です。しかし、区別について言えば、彼らには区別があります。

    抜粋:ウオッチマン・ニー全集第2期第34巻「栄光の教会」p68-69 JGW日本福音書房

わたしたちは教会がキリストのからだであることを認識し、キリストの一つのからだをすべての信者と共に地方ごとに表現する証しを願っています。

 またわたしたちは聖書の言葉に証しされたイエス・キリストを愛しています。聖書はよりギリシャ語原典に忠実な回復訳聖書を用いています。この聖書には聖書の真理が開けるように、ウィットネス・リーの著作によるフットノートがついています。




地方教会―ローカルチャーチ

使徒14:23 そして、彼は召会ごとに彼らのために長老を任命し、断食して祈り、彼らが信じていた主に彼らをゆだねた。

テトス1:5 わたしがあなたをクレテに残してきたのは、あなたが残っている事柄を整理し、またあなたに指示したとおり、1都市ごと に長老たちを任命するためです.

テトス1:5ノート1
この言葉は、使徒行伝第14章23節にある「召会ごとに」という言葉と比較すると、都市が地方召会の管轄区域であるだけでなく、一つの都市には一つの召会しかあり得ないことをも示しています。地方召会の長老職の範囲は、その召会が存在する都市全体であるべきです。一つの都市における唯一の長老団は、キリストのからだのユニークな一が損なわれることのないよう保護します。一つの都市には、一つの長老団を持つ一つの召会だけがあるべきです。このような実行は、新約聖書の明白な実例によって説明されており、疑いの余地はありません(使徒8:1,13:1,ローマ16:1,Iコリント1:2,啓示録1:11)。これは、地方召会で正しい秩序を維持するために絶対に必要な条件です。ですから秩序を正すために、使徒がテトスに行なうよう命じた最初の事は、都市ごとに長老たちを任命することでした。

抜粋:ウィットネス・リー 「新約聖書回復訳フットノート」、JGW日本福音書房
 

聖書にある教会は地方のものである

 聖書における教会は地方的です。新約全体に一つの例外も見いだすことができません。教会はすべて地方的です。エルサレムに在る教会、アンテオケに在る教会、コリントに在る教会などです。聖書にあるすべての例は地方的です。例えば、啓示録のエペソに在る教会、スミルナに在る教会、ペルガモに在る教会、テアテラに在る教会、サルデスに在る教会、ヒラデルヒヤに在る教会、ラオデキヤに在る教会はすべて地方的です。神はそれぞれの地方に一つの教会を定められました。地方と教会とは互いに等しいのです。地上の国は諸都市に分かれており、今日、地上で神の教会も諸都市に分かれています。この世には上海という地方があり、それゆえ神の御前には上海に在る教会があります。この世には南京という地方があり、それゆえ神の御前には南京に在る教会があるのです。この世には西安、蘭州という地方があります。それゆえ、神の御前には西安に在る教会、蘭州に在る教会があります。一つの地方になる大きさの場所がありさえすれば、その地方には一つの教会があるべきです。わたしたちのいる場所が地方ほどの大きさを持っていなければ、わたしたちは教会ではあり得ません。蘭州は神の目に十分大きく、地方となります。ですから、蘭州に在る教会があり得るのです。神の御前にこの問題はとてもはっきりしています。

抜粋:ウオッチマン・ニーウオッチマン・ニー全集第56巻「開かれた門」誌 第24号」
    pp152-153、JGW

powered by Quick Homepage Maker 4.78
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional