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「創世記ライフスタディ(1)(2)」より

ウイットネス・リー「創世記ライフスタディ(1)(2)」より



創世記は、エノクが神と共に生き、そしてついに神に取り去られたこと以外、何も語っていません。これはすばらしいことです。何もせず、何者でもなく、取り去られて主と共にいるその日まで、ただ主と共に歩くような人になれたらと、わたしは真に望みます。


エノクの生涯の特徴は、彼が神と共に歩んだことです。彼は神のために働いたとか、神のために大きなことをしたと言われているのではなく、彼は神と共に歩んだと言われています。


ある人と共に歩くためには、その人を好きにならなければなりません。エノクが神と共に歩んだという事実は、彼が神を愛したことを証明します。彼はひたすら、神の臨在の中にあることを愛しました。主イエスがエペソの召会を責められたのは、彼らは神のために多くの働きをなしたのに、初めの愛を離れたからです(啓示録:2-4)。


主はあまり多くの良い働きを見たくはありません。彼は神に対するわたしたちの愛を見たいのです。仮に、妻が夫のために多くの良い仕事をしますが、決して彼の前にいないとします。必ず夫は、「わたしはあなたが忙しくて、わたしから離れていることを欲しない。いつもわたしと一緒にいてくれる妻が欲しい」と言うでしょう。


携え上げは、あなたが主を愛し、彼の臨在の中で生きることを要することをあなたは知っているでしょうか?わたしたちは主を愛する必要があります。「主イエスよ、あなたを愛します。あなたの臨在の中で生きたいです。あなたを愛するがゆえに、あなたと共に歩みたいです」。この愛する態度が、携え上げられることの準備、条件、根拠です。


聖書では、ある事の最初の記述はその事の原則を打ち立てるので、携え上げの最初の記述であるエノクの事例は、携え上げの原則を打ち立てています。携え上げの原則とは何でしょうか?それは、神と共に歩くことによって、命において円熟させられることです。エノクは三百年、神と共に歩み、そして神は彼を取り去られました(創5:22-24)。


神と共に歩むとは、神に優先することではなく、出しゃばることではなく、自分の観念や願望によって事を行なうことではなく、神なしに何かをすることではありません。神と共に歩むとは、神をわたしたちの中心またすべてとすること、彼の啓示と導きにしたがって事を行なうこと、彼と共にすべてを行なうことです。それは神のために事を行なうだけでなく、神にしたがって、また神と共に生き、事を行なうことです。


エノクはそのようにして神と共に歩み、彼自身の願望や観念にしたがってではなく、また彼が生きていた時代の潮流にしたがってでもなく、神にしたがって、神と共に生き、事を行ないました。


エノクは神と共に上へ向かって歩きました。エノクが神によって取り去られたのは、突然起こったことと考えないでください。彼はある瞬間、地上におり、次の瞬間、天にいたと考えないでください。エノクは神と共に歩んで上り下りしたのではありません。またジグザグ模様に歩んだのでもありません。彼は絶えず上に向かって歩き、ついに天に触れたのです。365歳になって、彼がほとんど天に触れるばかりであった時、神は彼に言われました、「愛する子よ、わたしはここにいる。わたしと一緒に来なさい」。こうしてエノクは取り去られたのです。


エノクは昼も夜も三世紀にもわたって、十万日以上もの間、神と共に歩みました。エノクは日ごとに、神と共に歩み、それぞれの日はその前の日より少しずつ神に近くなっていきました。エノクは環境、周囲、人々と彼らの行動を見つめ、あらゆるものが不敬虔であるのを見ました。しかし、彼は敬虔で聖なる道において神と共に歩み続け、このようにして三百年、神と共に歩みました。


神と共に歩くためには、彼と共にいなければなりません。わたしたちは、自分の思うこと、愛すること、選ぶことにおいて、彼と一でなければなりません。


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