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「イザヤ書のライフスタディ」より

イザヤ書ライフスタディより

大半の人たちは、神の救いがわたしたちにとって、そんなにも主観的なものであるとは思っていません。
ほとんどの人は神の救いを客観的に考えています。
ある人たちは、主イエスが彼の手を伸ばして、自分たちを救い出し、堕落から引き上げてくださる必要があると思っています。
実のところ、主の救いは絶対にこのようなものではありません。


もし主に救ってもらいたいなら、わたしたちは彼を飲まなければなりません。
手順を経た三一の神をわたしたちの救いとして受け入れる方法は、彼を飲むことによります。
水はわたしたちの中に入ると、わたしたちの全存在に浸透します。


ナイアガラの滝の泉は、あまりにも大きくて、激しいために飲むことはできません。
しかし、イエスは穏やかな泉です。
昔、中東では、人々は泉のある所に行き、そこにある井戸から彼らのために、また他の人のために水をくんでいました。
わたしたちも主のもとに行って、自分たちのために、また他の人たちのために、生ける水をくむことができます。
わたしたちの飲む水は、わたしたちの全存在を行き巡り、わたしたちによって同化されて、わたしたちとさえなります。
わたしたちは日々、彼を飲む必要があります。


わたしたちは主を飲むことと共に彼を呼吸する必要があります。
霊の実際によれば、呼吸するとは飲むことです。
M.E.バーバーは、彼女が書いた詩歌の一篇で、「ひたすら御名を呼び、なが命を飲む」(詩歌65番2節)と述べています。
イエスの御名を呼吸するとは、命の水を飲むことです。
「おお主イエスよ」と呼ぶことによって、わたしたちは呼吸します。
そして呼吸することによって、わたしたちは飲みます。


イザヤ書第12章は、水をくむことについて述べています(3節)。
もちろん、これは飲むためです。
4節は、「その日、あなたがたは言う、『エホバをほめたたえよ。
彼の御名を呼び求めよ!』」と言います。
エホバを賛美することと彼の御名を呼ぶことが、一つに結び合わされています。
わたしたちが「おお主イエスよ」と言う時、それは御名を呼んでいるだけでなく、賛美しているのです。
わたしたちが、「おお主イエスよ、あなたを愛します」と言う時、これは賛美することでもありますし、呼吸することでもあります。


わたしたちが呼ぶことは呼吸することであり、呼吸することは飲むことです。
わたしたちは「おお主イエスよ」と言う時、彼を呼吸します。
そして、わたしたちは潤され、新鮮にされます。


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