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イザヤは、神の建造のためにキリストを享受することについて語っています

わたしたちは、わたしたちの堕落した状況の啓示と、栄光の中にあるキリストの啓示を見る必要があります

わたしたちはキリストを享受するために、わたしたちの堕落した状況の啓示と、栄光の中にあるキリストの啓示を見る必要があります。

主は言われます、「『さあ、来たれ、共に論じ合おう』とエホバは言われる。『たとえあなたがたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる』」(1:18)。

イザヤ書第57章20節から21節は言います、「しかし、悪しき者どもは荒れ狂う海のようだ。まことに、静まることができず、その水はぬかるみと泥を吐き出す。『悪しき者には平安がない』と、わたしの神は言われる」。

愛する聖徒たち、わたしたちが主を享受していないとき、わたしたちの存在から吐きだしているものはぬかるみと泥です。回復訳聖書のこの節のフットノートは次のように言っています。

「悪しき者どもの邪悪な状態は、彼らが主に来て主を食べ享受しないことです(参照55:1-2)。彼らは多くのことを行いますが、来て主に触れ、彼を取り、彼を受け、彼を味わい、彼を享受することをしません。神の目に、これほど邪悪なことはありません」。

神の目に最も悪いことは、わたしたちが彼を享受しないことです。

わたしは罪を犯していないと言う人は多くの良いことを行うかも知れませんが、主に来て彼を食べ、彼を飲み、彼を受け、彼に触れ、彼を味わい、彼を享受することをしません。それは神の目に最も邪悪なことです。わたしたちはみな主を享受しましょう。

主はわたしたちに最も良い意図を持っています。



御子の福音において神に仕える

ローマ1:9 わたしがわたしの霊の中で、御子の福音において仕えている神が、わたしの証人なのですが、わたしはいつも祈りの中で、あなたがたのことを絶えず覚えていて

ローマ人への手紙は、福音を宣べ伝えることが、罪人を神の子たち、またキリストのからだの肢体とし、彼らを助けて成長させ、彼らが諸地方教会におけるからだの生活の実行において、活動する肢体となることができるようにすることであることを見せています。

この書簡では3つの区分があります。

第1の区分:
贖いについて
・十字架がわたしたちと神の間のあらゆる問題を対処したこと
・わたしたちの罪が赦された
・神によって義とされた
・神に和解させられた
・神に受け入れられた

第2の区分:
命を与える霊としてのキリストについて
・キリストは命としてわたしたちの中におられる
・ご自身をわたしたちの霊とミングリングされた
・主とわたしたちは一つ霊である
・今やわたしたちは彼を飲み、享受し、彼で満たされる
・わたしたちは彼で浸透され飽和され得る
・わたしたちは聖別され、更新され、造り変えられ、同形化されて
 命の中で救われ、命の中で王として支配することができる

第3の区分:
キリストのからだを認識させる
・からだの中で生きる
・からだの肢体として共に組み合わされる
・霊的であることはからだよって測られ、試される




神の子供たち、神の(息)子たち、神の相続人

その霊ご自身わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子供たちであることを、証ししてくださいます。(ローマ8:16)

信じる者たちの中に働いておられるその霊は、かつては罪のある子供たちであった信者たちが、今や神から生まれた神の子供たちであることを証ししてくださいます。

神の霊によって導かれているものはみな、神の子たちである
(ローマ8:14)

キリストにある信者は、まず神の子供たちですが、次第に成長して神の(成人した)子たちとなります。子たちは成長して、神のみこころの中を歩くように、わきまえがあるようになり、導きを受けることができます。

もし子供であるなら…わたしたちは神の相続人であり、またキリストと共同の相続人です   (ローマ8:17)

相続人は法的に成人であって、父の財産を受け継ぐ資格があります。相続人となる条件は、命の中で成熟していることです。人であれば、人の命に成熟している必要があります。神の子であるなら神の命と性質において成熟している必要があります。この円熟に至るためには苦難が必要です。

聖書は、人がキリストを信じ受け入れた時、神の命としてキリストを受け入れ、神から生まることを言っています。人の中に入られた霊なるキリストは命として信者の中におられます。この命は人の中で信者と共に成長し、信者は神の子供(child)から子(息子)へ、そして成熟した相続人へと至ります。これは神と人とのミングリングの物語です。

信者は努力して成長するのではありません。内なる命が成長するために、日々神の言葉を食べ、言葉の中の命の支配を受け、日常生活の中で命の感覚に従順に生きることで成長していきます。




特別集会が持たれました

主題:ローマ人への手紙における神の福音に関する重要な点

メッセージから、ごく一部ですが、ご紹介します。

キリストご自身は唯一のかしらです。

キリストにはからだもあります。

信者の中のキリストがからだです。

かしらとからだは、命、性質において同じです。

わたしたちは、罪深く、この世を愛しているかもしれませんが、神の完全なみこころは決して変わりません。

神のみこころは、キリストのからだを得ることです。

どのようにして彼はみこころを成就するのでしょうか?

その答えは、ローマ人への手紙全体です。

それは、神の福音―罪人を神の子たちとして、キリストのからだに構成し、地方召会として表現することです。

【ローマ人への手紙のおける神の福音に関する神聖な思想とは】

神が人となったのは

神の全体的な救いにおいて、

罪人が贖われ、

再生され、

聖別され、

更新され、

造り変えられ、

同形化され、

栄光化されて、

神の子たちとなり

命と性質において神と同じになって、

キリストのからだの肢体となるためです。



ローマ人への手紙における神の福音に関する重要な点

神が人となったのは神の全体的な救いにおいて、罪人が贖われ、再生され、聖別され、更新され、造り変えられ、同形化され、栄光化されて、神の子たちとなり、命と性質において、神と同じになって、キリストのからだの肢体となるためである

ローマ人への手紙御言葉

3:24 価なしに、彼の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いを通して、義とされるからです.

5:10 というのは、わたしたちが敵であった時に、御子の死を通して神に和解させられたからには、和解させられている今、彼の命の中で救われるのは、なおさらのことです.

8:29 なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.

12:02 またこの時代の様にかたどられてはいけません.むしろ、思いが新しくされることによって造り変えられなさい.それは、何が神のみこころであるか、すなわち何が善であって、喜ばれ、完全なものであるかを、あなたがたがわきまえるようになるためです。

12:05 わたしたちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。

ローマ人への手紙の主題

神の福音…罪人を神の子たちとならせ、キリストのからだに構成し、キリストのからだは諸地方教会として表現される


キリストの復活

キリストが神であることでは、彼は死人の中から復活しました。

このために、キリストが死んで再び生きられたのは、彼が死んだ者と生きている者の主となられるためです。(ローマ人への手紙14:9)

キリストが人であることでは、彼は死人の中から復活させられました。

…それは、キリストが父の栄光を通して死人の中から復活させられたように、わたしたちも命の新しさの中を歩くためです。(ローマ人への手紙6:4)


キリストの復活における3つの偉大なこと

1 神はキリストを彼の長子として生み出しました。

 なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです.
(ローマ08章29節)

2 神はキリストと共に多くの子たちを生み出しました。

 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの神また父.この方はその大いなるあわれみにより、イエス・キリストの死人の中からの復活を通してわたしたちを再生し、生ける望みを持たせ、
(Ⅰペテロ01章03節)

3 神はイエス・キリストを命を与える霊としました

 そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。
(Ⅰコリント15章45節)




新エルサレムの中心

分与する三一の神の流れである、命の水の流れとして、神と小羊の御座から、聖なる都の大通りの中央を流れる

 啓示録第22章第1節は言います、「御使いは、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」。ここで見るように、新エルサレムにおいて、わたしたちは命の水の泉ばかりでなく、命の水の川を享受するでしょう。泉は源であり、川はその流れです。そして、源も流れもどちらも命の水です。命の水は、その霊として、自ら彼の贖われた民の中に流れ込み、彼らの命と命の供給となられるキリストの中におられる神を象徴します。それは、打たれた岩から流れ出た水によって予表され(出エジプト17:6、民数記20:11)、また主イエスの刺し通された脇から流れ出た水によって象徴されます(ヨハネ19:34)。啓示録第22章1節で、この命の水は神と小羊の御座から流れる川となって、新エルサレム全体を供給し、浸透します。こうして、新エルサレムは神聖な命に満ち、神の命の栄光の中で、神を表現するでしょう。

画像の説明

 小羊・神の御座から流れ出る命の水の川は、命を与える霊としての神の霊の流れ以外の何かではありません。第22章1節で、わたしたちは三一の神――神、小羊、川を見ます。父なる神は源です。御子である小羊は贖い主です。川はその霊です。ですから、わたしたちは源としての父、水路としての御子、流れとしてのその霊を持っています。これは、第22章1節には、三一の神の流れがあるという意味です。これは、三一の神がご自身をわたしたちに分与することを描写する絵です。彼はご自身から流れ出て、彼の贖われた者たちの中へ流れ込みます。この三一の神の分与が、神の統治する御座から出て、わたしたちにもたらされるのは、神の分与が神の行政によることを示します。           
 命の水が小羊・神の御座から流れるとは、すなわち、それが神ご自身から流れているということです。新エルサレムには小羊の中におられる神がおられ、この尊い神から命の水、命を与える霊が流れています。これが三一の神の分与です。神はご自身をわたしたちに分与する前に、わたしたちを贖わなければなりませんでした。ですから、啓示録第22章における絵は、贖う神はまた命を分与する神でもあることを啓示しています。小羊は贖いを象徽しており。命の川は命の分与を象徴しています。永遠にわたって、わたしたちの神は贖う神であり、命を分与する神です。新しい天と新しい地における新エルサレムにおいて、わたしたちの神は命の川(命を与える霊)として流れる贖う小羊であって、彼の命を都のあらゆる所に分与されるでしょう。
 この命の水の川は、新エルサレムの大通りの中央を流れています。聖なる都の大通りは、純金――神聖な性質を象徴する――でできています(21:21)。都の大通りを流れる命の水の川が象徴するものは、神の贖われた民の日常生活のための、神聖な性質において、特別な方法で流れる神聖な命です。神聖な命の流れのある所には、聖なる道としての神聖な性質があり、彼の民はそれによって歩きます。また、神聖な性質による聖なる道がある所には、神聖な命が流れています。神聖な命と、聖なる道としての神聖な性質は常に一緒です。ですから、命の水の川はこの神聖な道にしたがって飲むことができますし、またその神聖な道を歩むことによって、わたしたちはそれを享受します。           

ウィットネス・リー著「新約の結論」第11巻p211-212 より




栄光の要求

ヘブル人への手紙10:19
こういうわけで、兄弟たちよ、わたしたちはイエスの血によって、大胆に至聖所へ入ります。

ケルビムは神の栄光がキリストから輝き出ることを表徴します。ですから、神がケルビムの間から彼の民に語ることは、彼が彼の栄光の中でわたしたちに語ることを意味します。神は他のいかなる場所、他のいかなる状態においてもわたしたちと会うことはできません。神がわたしたちと会われる時はいつも、その会うことは彼の栄光の中で起こらなければなりません。わたしたちはこれを、自分の経験から証しすることができます。わたしたちは神と会うときはいつも、、栄光の中、契約の箱の蓋の上のケルビムによって表徴されたような栄光の中にいると感じます。わたしたちは悔い改め、主イエスを信じた時に、栄光の領域にもたらされました。神は決して暗やみの中でわたしたちと会いません。その反対に、神はつねに栄光の中でわたしたちと会い、栄光のケルビムの間からわたしたちに語ります。

ウィットネス・リー著 「出エジプト記ライフスタディ」メッセージ86 より



なだめの場所

コリント人への第2の手紙4:06 
 なぜなら、「暗やみから光が照りいでよ」と言われた神は、わたしたちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識を、輝かせてくださったからです。

 ケルピムは神の栄光がキリストから輝き出ることを表徴します。ですから、神がケルビムの間から彼の民に語ることは、彼が彼の栄光の中でわたしたちに語ることを意味します。神は他のいかなる場所、他のいかなる状態においても、わたしたちと会うことはできません。神がわたしたちと会われるときはいつもその会うことは彼の栄光の中で起こらなければなりません。わたしたちはこれを、自分の経験から証しすることができます。わたしたちは神と会うときはいつも、栄光の中、契約の箱の蓋の上のケルビムによって表徴されたような栄光の中にいると感じます。わたしたちは悔い改め、主イエスを信じた日に、栄光の領域にもたらされました。神は決して暗やみの中でわたしたちと会いません。その反対に、神は常に栄光の中でわたしたちと会い、栄光のケルビムの間からわたしたちに語ります。
 さらに、出エジプト記第25章にはケルビムの形、寸法、重さについて、何も告げられていません。これは、キリストの輝きの栄光は測ることができないことを示します。それはまた、キリストの栄光が説明できないことを示します。わたしたちはケルビムを記述することができないように、キリストの輝きの栄光を説明することはできません。しかしながら、ケルビムには顔と翼があったという事実から、この栄光は命のないものではなく、生きているものであることを知ります。キリストの栄光は生きています。わたしたちは、この栄光には顔、目、翼があるとさえ言ってよいでしょう。神がわたしたちと会い、わたしたちと語られるとき、わたしたちは、栄光がわたしたちを見つめており、この栄光は生きているという感覚を持つことを、わたしたちは経験から知ります。実は、この栄光とはキリストご自身です。ですから、出エジプト記第25章のなだめのおおいの一般的な概念は、キリストは神聖な栄光の輝きであること、神はこの栄光の中でわたしたちと会い、わたしたちと語ることを表徴するということです。

ウィットネス・リー著 「出エジプト記ライフスタデイ」メッセージ86 より引用



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